孝行のしたい時分に親はなし

7月29日。晴れときどき曇り⛅閉鎖後56日目。

今日も晴れてるなぁ、暑そう。

「あっちぃなぁ」というと、
亡き父が、
「夏じゃからな」とか、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」
 と言っていました。
毎年、夏は、畑の周りの草を、汗だくで草刈り機で刈っていました。
中学生くらいからだったかな?
体を動して、汗かくと、頭がスッキリしてよかったけど、「腰が入っとらん。」とか言われて、つらかった。
大学生になっても、夏休み帰省した時にやらされたことがあった。
その時、「上達したな。」と、褒められた。夏が来ると思い出す。

私の父は、もう、 20年以上前に、鬼籍に入りました。
今こそ、父とゆっくり、酒でも飲みながら話をしてみたい。とときどき思います。
まさに、「孝行のしたい時分に親はなし」です。
父は、
寅さんの映画を見ながら、大爆笑していたり、
車で、落語のテープをかけて、 クスクスわらっていたりして、お笑い好き。
家族を乗せて、車を運転しながら、
わぁーらーにーまみれてよっ」
急に、大声で、三橋美智也を繰り出してきて、
「もー、びっくりするじゃん!」「わっはっは」
となる、いたずらが定番の、面白いおじさんでした。

でも、やらなければならないことに対しては厳しく、大して言葉は発しないが、無言の圧力がある、昔の一家の主(あるじ)という感じで、父にはまったく頭が上がらない、親子というより、主従の関係に近かったかもしれません。

そんな父は、若いころからの不摂生がたたり、30代で心筋梗塞で倒れました。
その時はまだ、心臓の血管が完全に詰まっては無かったと思いますが、かなり、いろんな種類の薬を処方されていたのを覚えています。
それでも、30代。若かったからなのか、医者が嫌いだったのか、薬を飲まなかったり、生活もそんなに変えなかったりで、40過ぎで、もう、当時ではまだ、そんなに実績がなかった、心臓のバイパス手術を受けるまでに悪くなりました。

父は、当時中学生だった息子たちに、「何かあったら、後のことは頼んだぞ。」と覚悟を決めさせるようなことを言って、決して、弱みをみせませんでした。
私は、父が泣いているのを見たことがありません。父の父(祖父)が鬼籍に入った時、泣いていたようだと母に聞いたことがあるが、それだけです。
母にかわり、入院している 父に付き添った夜は、別の緊張感でよく覚えていません。

手術は成功しましたが、血管の老化は、現在の医学でも治療できていないですよね。
父も、2回目のバイパス手術を行ったりしながら、どうにか、こうにか生きて、家族を養ってくれましたが、冒頭にも書いた通り、ようやく、父と酒でも飲みながら、話をしてみたい、父が自分の歳のころ、どう思っていたのかとか、何に悩んでいたのかとか、聞いてみたいと思ったときには、もう、それができなくなっていました。

そして、最期は、父とは、腹を割った話が一度もできないまま、黙ってベッドわきにいた私たちに、「いろいろ、ありがとうな。」と言って、旅立っていきました。
ありがとうと言うべきはこっちの方なのに、それでも私は黙って立っていました。
急に押し寄せてきた、一家の主という重圧に、涙も出ませんでした。

今になって、もっと話をすればよかった。いろんなことを聞いてみたかった。話してみたかった。と、ときどき思います。

孝行のしたい時分に親はなし。ということなのか、なぜかはわかりません。

子供たちには、 病気のことは、 包み隠さず話をしていますが、一方的に伝えただけ。
父と同じように、子供たちと、腹を割って話してない中で、病気になってしまったので、何かあるのか。
父は長生きとは言えなかったので、父が亡くなった歳まで、生きられるのかどうか。も昔から気になっています。
だから?

夜、静かに、頭が空っぽになったとき、ときどき、頭の奥の方から、ふっと出てくる。
なんなんだろう?と思っていると、眠りに落ちます。

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